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アンジェロ・リトリコの第一歩

情熱の島シチリア出身のアンジェロ・リトリコは、メンズウェアに一大旋風を巻き起こしたイタリア人デザイナーです。彼がファッション界に与えたインパクトは、その昔、国連にフルシチョフが与えた影響にも匹敵すると言えましょう。

アンジェロ・リトリコは 1927年、12人兄弟の長男としてカターニャに生まれました。アンジェロ少年は学校に通う傍ら早くから町の仕立て屋に奉公するようになります。

針に糸を通し、アイロンを用意し、細々した仕事に精を出すアンジェロ少年の働きぶりを見て、店の主人は感心しながらも、この「見習い小僧」が将来アルタ・モーダの花形になろうなどとは夢にも想像していませんでした。

やがて、若者に成長したアンジェロは「カターニャにいては、いつまで待っても芽が出ない」と、運命の糸に導かれるまま、ローマに辿り着き、郊外の仕立て屋で働き始めます。

仕事の傍ら、好奇心の強いアンジェロは、セレブたちを「甘い生活」へと誘うヴェネト通りへ度々足を向けるようになります。そんなある日、たまたま通りかかったシチリア通りにある小さな裁縫店が目に留まり、さっそく店に入って「裁縫台」に雇ってもらえないかと尋ね、すぐ新しい就職を決めたのです。自信のついたアンジェロは高級服を自分で仕立てて着てみるチャンスにも恵まれるようになり、やがて彼の作る服の色や形の新しさが人々の注目を集めるようになります。ある晩オペラ座にアンジェロが着て行った絹のタキシードが、俳優ロッサノ・ブラッツィの目に留まり、ブラッツィはアンジェロの最初のお得意となります。顧客層は次第に広がり、アンジェロは、小さな自分の店を一軒持てるようになり、そこに高名な政治家、各界のプロ、有名俳優たちが訪れるようになります。



アンジェロ・リトリコのアイデア

メゾン・リトリコは世界で最初に紳士服のファッションショーを開き、50年代の有力メゾンの創作婦人服と組み合わせてメンズウェアを発表することを思いついきました。

57年、ロシアではイタリアンモードが話題に上り、リトリコは他の婦人服メーカーと共に、ショーに参加するように要請されました。その時、当時のソ連首相フルシチョフにコートをプレゼントするというアイデアが、アンジェロの頭にひらめいたのです。首相のサイズは新聞に載っている写真を参考にして想像しました。コートを受け取った党書記長フルシチョフはリトリコに感謝し、お返しとして高級カメラを彼に贈りました。次いで、フルシチョフは娘と婿を介してアンジェロ・リトリコに自分の正確なサイズを知らせ、数ヵ月後の合衆国訪問を前にして、その後話題となった靴も含め服飾デザインの全てを、ロシア大使館を通じてリトリコに依頼したのです。

アメリカを訪れたフルシチョフは、日頃ロシア人の野暮ったい服装を見慣れていた記者たちから、今回の首相担当のデザイナーの名前を聞かれ、「冷戦雪解けを促進する意図で、アンジェロ・リトリコというイタリア人デザイナーに発注した」と答えたそうです。

丁度その頃、幸先よくファッションショー企画のため米国に滞在していたアンジェロは、マスコミの話題の的となりました。世界中の新聞雑誌が37ヶ国語で彼について報道し、1959年にはアンジェロ・リトリコはもうすっかり世界的に有名なデザイナーとなっていたのです。

彼の小さなアトリエにはイタリアはもちろん諸外国からの客がひしめき、壁には有名画家の絵や、リトリコデザインの服を着た名士たちのサイン入りの写真が隙間なく貼られるようになりました。リトリコは世界中から注文を受け、紳士服のファッションショー開催だけでなく、取引関係を次々拡大し、イタンアン・メンズファッションを大きく世界にアピールしていったのです。

アンジェロは他に先駆けて日本の大手メーカーと契約を結び、メイド・イン・イタリーを代表する自らの名声を通じて国内同業者と日本との橋渡し役をも果たしました。次々に結ばれる契約を通じて、リトリコの名はヨーロッパや日本だけではなく、北南米、南アフリカ、オーストラリアでも知られるようになります。

これらの業績を称えて、イタリア政府はリトリコに数々の勲章を授与しました。62年に騎士章、65年に正騎士賞、68年コメンダトーレ勲章、72年グランデ・ウフィチァーレ章をリトリコは受賞しています。

 


アンジェロ・リトリコの人生哲学

超多忙な生活と大家族を養う義務に追われ、アンジェロ自身は生涯結婚しませんでしたが、親戚の結婚式や、その子供たちの洗礼に立会い、周囲の人たちへの惜しみない援助などによって皆から慕われ、その後も大勢の甥姪たちにありたけの愛情を注ぎます。

ここまではデザイナー、一人の男性としてのアンジェロ・リトリコについて触れてきましたが、彼の人間的全体像を知るためには彼の人生哲学を知らなければなりません。

アンジェロはスタイルの美的完成を求め続けました。彼はファッションが他の分野での仕事と同じように、コンセプトとその実現という二つの基本的要素から成りたっていることを知っていました。

彼はモノではなく、人間を出発点にすることを原則としていました。時流に会った人々の望み、弱点、気まぐれ、美的嗜好を知るために人間の研究をすること、そして、人々の好みを先取りし、明日のファッションのあり方を探り出すこと、それが彼の哲学でした。事実、ファッションとは歴史のショーウィンドー以外の何ものでもないのです。

アンジェロ・リトリコは普段自分についてあまり語りたがりませんでしたが、数々のインタビューの中で彼らしい誠実さと良識で、一流政治家も顔負けの思慮深い意見を述べています。

「自分のことを話すのは苦手です。私生活を大切に思う人なら誰でもそうですが、私も自分の話をさせられる度にまごつくのです。でも、困難な目標を達成し、夢を実現し、長い間別れ別れになっていた家族全員が犠牲を払った後、最後に皆を自分のそばに呼び寄せ、彼らを幸福にしてあげられたことを、正直言って誇りに思っています。これも全て、もとはと言えば、針とハサミという手作業のささやかな小道具でやりとげたことなんですね。毎日うまずたゆまず努力して研究した結果、自分の作品を創り出せるようになったのだと確信しています。」

率直な態度、思考の賢明さ、感情の誠実さなどのお蔭でアンジェロは各界の名士を身辺に惹きつけました。

その名士とは、例えば、マンズー、カルピ、コンサグラ、ドラツィオ、マストロイヤンニ、カロン、グレコ、カッリ、グットゥーゾなどの芸術家、ラファエル・アルベルティ、クヮジモド、ウンガレッティなどの詩人、トーマス・シッパース、シノーポリ、カラッチョロ、パーニ、ゲルメッティのような指揮者、リチャード・バートン、ジョン・ヒューストン、ロッサノ・ブラッツィ、アメデオ・ナッザリ、ヴィットリオ・ガスマンのような俳優、歌手ドメニコ・モドゥーニョ、ケネディー、ティート、ペロン、ペルティーニ、ナセル、レスコル、グロンキ、レオーネ、フセイン大統領、ウムべリト・ディ・サヴォイア、アイゼンハウワー、マクミラン、ニクソン、キュビチェク等の国家主席、アンドレオッティ、コロンボ、プレーティ、モルリーノ、タナッシ、マルファッティ等の政治家などです。

しかし何と言ってもアンジェロ・リトリコの心の広さを理解するには、かの有名なクリスチャン・バーナードの名を挙げなければならないでしょう。バーナード博士はローマに来る度に、リトリコの紹介で何百人という子供たちを診察し、さらにアンジェロの経済支援で、病気の子供たちの手術をケープタウンで実行したのです。アンジェロは自らの少年時代の苦労を忘れておらず、治療と理解を必要とする子供たちの援助を続けたのでした。

 しかし何と言ってもアンジェロ・リトリコの心の広さを理解するには、かの有名なクリスチャン・バーナードの名を挙げなければならないでしょう。バーナード博士はローマに来る度に、リトリコの紹介で何百人という子供たちを診察し、さらにアンジェロの個人負担で、病気の子供たちの手術をケープタウンで実行したのです。アンジェロは自らの少年時代の苦労を忘れておらず、治療と理解を必要とする子供たちの支援を続けたのでした。

 

過去と未来

1986年3月13日アンジェロ・リトリコはこの世を去り、その後を彼の弟妹フランコ、ジューシが引き継ぎました。二人は非常に若い頃からアンジェロの後について、仕事の全工程でアンジェロに協力、アンジェロが仕事でイタリアを長く離れている間は留守中の会社経営を一手に引き受け、立派にその任務を果たしてきたのでした。

2004年6月2日フランコの死後、1998年から社内で働いていたフランコの子供たちと社の実務やターゲットを熟知している技術担当スタッフが伝統と革新をモットーとした優秀なチームを編成しました。こうしてリトリコ社はその業績を開拓拡大し続けているのです。

リトリコは、世界中の政治、経済、文化、映画、芸術関係に顧客を誇るオーダーメイドのアルタモーダ紳士服と、アルタモーダ・コレクションを«クチュール・ア・ポルテ»に変えた商品を取り扱って、世界中に販路を広げています。

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